説明できたとしても在るとは限らず、説明できなくとも在るものは在る
あるゲームの中で、こんなセリフが出てくる。
我々は今以て「心」のことなど何もわかってはいない。 何を説明できたとて、本質には手が届いていないのだ。 かつてと同じく、我々は無知のまま。 お前が何かを創造しようとするなら、それは——そう。無知から生まれし創造。やがて自らの創造物もろとも身を滅ぼすことになろう。これはある科学者の師弟が紆余曲折を経て対峙した時の会話だ。弟子が師匠を陥れて研究を乗っ取り、その上で世界を混乱に陥れてしまっている。そこに、かつての師匠が現れて一矢報いようとする。その時の師匠の発言。 このセリフと出合ったのは、高校生くらいだったと思う。その師弟のやりとりが妙に気に入って、20年近く経った今でも思い出せる。弟子のほうが、優越感に浸りながら「私はあなたが成し得なかった偉業を引き継ぎ、新たなる領域に届きつつある」と豪語し、それを師匠が「私と等しく愚かな弟子よ」と返し、上記を諭す。 ==== 特に好きなのは、「何を説明できたとて、本質には手が届いていないのだ」という発言だ。これは、探究者はみな、胸に刻まないといけない。 説明できるということと、解明できたということは、必ずしも結びつかないのだ。事実と異なっていても、説明はできてしまう——そういったことは往々にしてある。一見して隙のない論理であっても、全く意味を成さない説明というのは、普遍的にあるのだ。そもそも論理とは前提とセットであり、前提とはつまり、「論理の飛躍」だから。そして前提が間違っていれば、その論理、説明に意味はない。 こういう議論は、おおよそ100年くらい前から存在している・・・というか終わりを告げている。そりゃそうだ、と。ところがぎっちょん、「説明がつくんだから正しいはずだ」という言説の力は、ここ最近特に、増しているように思う。 要因の一つは、「現代社会において【賢さ】が過剰に持ち上げられている」という点。これは落合陽一さんの番組の中で語られていた。昨今の人類は「賢い」というファクターが異様に過剰評価されている。論破した人がエライ、難しい知識を持っている方がエライ、と。それがいつしか「体験」を越えてしまい、体験したことないのに、説明できただけでエライ、という世界観になってしまっている。 それをある人は「身体性の喪失」と言う。ただ、もっと古くから同じことは言われている。「絵に描いた餅」「空念仏」「机上の空論」あるいは「取らぬ狸の皮算用」という言葉で。 ==== 先の科学者は、自身の過ちを最期が近くなってようやく気付き、そしてこう振り返る。 「ああ、気付いていた。だが認めるわけにはいかなかった。私はいつもそうだ。心は感知しているのに、頭で理解しようとする。そして間違える。」 賢い人、あるいは賢さに自負がある人ほど、きっと認めることが難しい。「説明がつかないけれど正解」ということの存在、そのあまりにも多さに。それを認めると、自負、あるいは世界が崩れてしまうから。 それは尊厳に近い部分だから、揺らげば揺らぐほど、逆に「説明」を求めてしまうし、後付けの説明に意味を見いだして「ほら!やっぱり説明がつくほうが正解なんだ!」と思い込んでしまうのではないか。それが例え結果論だとしても、論ナシの世界よりはマシだから。 ただし、賢さの視点から一つの希望を示すならば、論ナシであっても理はあるのだ。論じることはできなくとも、理(ことわり)はあるのだ。理とはつまり、世界であり、僕らが体験し、感じていることだ。賢さを捨てろというわけではなく、論から解き放とう、ということだ。 いや、理を以て論を弄してこそ論理を成すのだ。リンゴが落ちる様を感じてから、万有引力という論を見いだすように。あるいは、風呂に入って溢れる水を見て浮力の原理を見いだすように(前者の話は創作らしいが)。 ==== 別の物語における科学者はこんなことを言っていた。
まずはスタートラインに立たないと、考えるべき本当の問題にすら気がつかない。難しい問題ってのは、やってみないとわからないから難しい問題なんスよ。これを認めるのは、きっと難しい。でも、あーだこーだ人間の脳で考えたところで、世界を捉えることはできないのだ。だから、やってみて、感じてみて、そこで得た理を重ねて論じてみる。そして例え論じれないからといって、理をなかったことにはしない。説明はなくとも、世界は在るのだから。 ==== これは完全な余談だが、「論はなくとも理はある」と書いているところで、「リアルとは理・在る」という言葉遊びを思いついた。これ以上ないくらいの言葉遊びだけれど、なんとなく忘却したくないのでここに書き残す。