問題意識の違い
ある場所では全く受け付けられないアイデアが、ある場所ではすんなり受け入れてもらえたりする。受け付けられないということは僕のアイデアがダメなんだろう、伝え方がダメなんだろうと思っていたけれど、実は違っていて、「そもそもの問題意識が違う」というのが潜んでいるんじゃないか、と最近思う。
これは任天堂の宮本茂さんとほぼ日の糸井重里さんとの対談の中にあった宮本さんの発見で。
社長の代わりに糸井重里さんが訊く「スーパーマリオ25周年」 |
つまるところ、アイデアというのは問題の対になる存在だから、そこに問題があるゾという意識がそもそもズレていたらアイデアもヒットしない。「このパズルピースがそこのデコとボコに合うんじゃない?」は、見ているパズルが違っていたら話が合わないよね、と。
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僕の学びや研鑽というものは、ゲーム業界やエンタメ業界に根差したものが多い。僕はコンピュータにおけるゲーム、あるいは遊びという側面に惹かれてコンピュータの世界に入った人間だからだ。だからコンピュータ操作における触り心地や質感、それによってユーザがどう感じるのか、といった点を重視する。ここが僕の問題意識になる。
一方で今僕がいるIT業界、Web業界というところでは、機構や仕組み・・・あるいはビジネスに重きを置いている節がある。もちろん全てではないにしろ、多くの問題意識が建て付け・機構の方にいっているように思う。
つまり、僕の問題意識というのは「ユーザがどう感じたか」であり、IT業界の問題意識は「仕組みが回っているかどうか」だ。ここに致命的なズレがある。
例えばチームメンバーがなんだか上手く協力しあえていない時、僕のアプローチは「まずみんなと1対1で話して腹割って話そう」になる。信頼してもらって、納得してもらった上で色々と物事を進めないと、そりゃやる気でねぇよな、と。つまり「みんながどう感じているか」「どう感じてもらって働いてもらうか」が僕の問題意識。
一方でいろんな組織や本などでよく見るのは「マネージャーを立てよう」とか「定期的な1:1をしよう」「ビジョンとかを伝える場を設けよう」とかになる。こっちも正しい。こっちの問題意識は「チームが協力して働く仕組みがあるか」のほう。
もちろん両方の問題を見ろよ、という話はあるし、実際互いにもう片方のほうを軽視しているわけじゃない。ただ、根っこの問題意識が違うと出てくるアイデアも変わってくるし、普段から見ているモノも全然違う。つまるところ、僕は「仕組みの問題じゃない」と思っているし、一方で後者は「みんなの不信感の問題じゃない」と思っている。
ここが食い違うともちろん、出てくるアイデアが違う。だから、「問題意識の違い」・・・つまり「ここにおいて何が問題だと思いますか?」というのは、人と人とが一緒に何かする上でむちゃくちゃ大事なことなんだろう。
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はてさて、その問題意識の差の中には「問題をちゃんと知ろう」という問題意識があるかないか、というのも潜んでいる。言い換えれば「自分は問題というものをちゃんと把握しているだろうか」という問題意識を持っているかどうか。
これは「バイアス」・・・つまり思い込みのハナシだ。人は簡単に思い込みの罠に陥る。「人は信じたいモノを信じる」という言葉があるけれど、これは実際に学問の世界では「確証バイアス」という名前がついている。ノーベル賞を取った方もいるし、それが行動経済学という一分野を生んでいて、学問の世界ではバイアスというものは前提知識だ。
このバイアスの恐ろしいのは、「どんなに気をつけていても陥る」という点だ。上述したノーベル賞も「気をつけていても陥るんですよ」「ことあるごとに対策しないといけないですよ」というのを徹底的に実証したが故のノーベル賞だ。僕だって簡単に陥っているだろう。
僕らは日々「問題とはコレのことだ!」というのを決めつけてしまう。だからこそ「問題をちゃんと把握しているか」という問題意識・・・いわば「メタ的問題意識」みたいなを常に持って、疑ってかかる必要がある。
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冒頭の宮本茂さんは同じく有名な言葉を残している。それは「アイデアとは複数の問題を一気に解決するものである」というもの。これは多分、僕のメタ的問題意識を維持するのに一役買っている気がする。安易な問題発見感覚と解決策に飛びつくのを止めてくれている。対処療法はアイデアじゃない。アイデアってそんな一朝一夕に出てくるモノじゃない。
第1回 アイデアというのはなにか? | 任天堂の岩田社長が遊びに来たので、みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ。 | ほぼ日刊イトイ新聞