イオリン手記

小難しいこと言うんだね、キミは

すべての認識は編集成果である

人が多いところというのは、それだけ解釈が多いということで、つまりはストーリーが多いということだ。ある男女が駅の改札で手を振ってさよならしているだけのことに対して、通行人の数だけストーリーが形成されていく。そして喫茶店や中華料理店などでそのストーリーが語られ、その語られている様を耳にした人がまたストーリーを作っていく。 この2人は久しぶりに会った従兄妹だったとしても、「遠距離恋愛中のカップルだ」とか「幼なじみの同級生だ」とか、そういったストーリーが語られる。そしてそれらが語り部や聞き手にとっての真実になる。それの善悪は論じないが、ストーリーとは所詮はストーリーであって、解釈・脚色が加えられた実在しない歴史だ。人が多いと、それだけ虚構に溢れるということでもある。 ただまぁ、事実と物語を分けるのはとても難しい。たとえば最初は「良い香りだなあ、この人」と思いながら会話していたのに、3分も経てばそんな感覚は消えてしまうように。これは鼻が匂いになれてしまったわけだが、言い換えれば脳は現実を編集して僕らに認識させている、というわけだ。匂いの成分は変わらず存在しているのに、脳が編集しているせいで認識できなくなる。そういう意味で、僕らはそもそもが虚構に生きている。 重ねて言うが、善悪ではなく、「そういう認識を持ったほうが安全だよね」というハナシだ。その上でストーリーを悪ともせずに楽しむのは良いと思う。うわさ話とは、うわさとして楽しむならばいい。事実のように扱うから物事が歪むだけで。そしてそれは、あらゆる脳の認識結果が編集成果であるからして、全ての情報を「編集成果である」と認識しておかないと、まぁ物事がうまく行かないわけである。 おおよそ、現代において「言語化」が揶揄されるようになったのは、つまり「言語」というもの、「言葉」というものを事実だと捉えてしまう人間が増えたからだろう。言葉とはそれこそ編集成果の象徴なわけで、事実や実在するのは世界のほうなのだが、一方でSNSなどには先んじた実在が介在しないものだから、言葉を事実だと誤認してしまうのだ。それを誇示するほうも、辟易するほうも、どちらも誤認しているのだ。 たとえば「経営」というものを礼賛する人間と、批判する人間との2種類がいる。前者は「経営とは合理化であり問題解決であるから、それはビジネスだけではなく人生すべてにおいて適用する価値がある」とする。後者は「経営による合理化はビジネスという局所的合理化に過ぎず、ビジネス以外の範囲において問題を起こす」と言う。これらはつまり、同じ「経営」という単語を使いながらその実、別のリアルを評しているがゆえに噛み合っていないだけで、最初にすべき問答は「あなたの言う経営ってなんですか」なのだが、なまじ「経営」を事実だと思っていると、そこに目が行かないのだ。 ここに関しての学問が、「哲学」と呼ばれるモノなのだが、哲学という学問自体が、事実偏重主義(=事実誤認主義)の時代においては軽視されがちなので、この時代の加速度は増すばかりだ。物事があまりにもうまくいかずに崩壊する、その時まで。 この繰り返しさえも、哲学の世界では何千年と起きていて「そういうもんだよね」と論じられているのだが。「西洋哲学とはプラトンの哲学の注釈である。」という言葉で。
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