自分で辿り着いた先に先人を見る。
おおよそ、様々な道を歩んでいるように見えながら、目指す場所や辿り着いた場所は、実のところ似通っている。少なくとも文章、あるいは言葉という、大きなフィールドの上では、孤独の末に歩いた先には、常に先人がいるのだ。
僕は「自分にも他人にもアイデンティティを感じない」と最近言うようになった。この感覚はずっと昔からありながらも、最近、ようやく輪郭のフチ取りができたのだ。そこに至るまでには随分と時間がかかったが、その道中であまり共感を得ることは無かった。
が、いざ辿り着いて見ると、同じ場所にいる人というのは少なくないようで。最近では松岡正剛さんという方がそうだったし、古くは釈迦が2500年前に「無我」を唱えていたわけだ。そう考えると、僕の「万物は流れである」とする哲学は、ほとんど仏教である。
また他方で、僕は文章や言葉を「世界のフチ取り」という言い方をしている。言葉とはただの言葉であり、世界が先にあって、言葉はその世界の輪郭を捉えるための道具である、という考え方だ。これもまあ長年感じてきたことであり、一方で同じ考え方をする方と出会うことは稀だった。
しかしながら、みなが良く使う単語「デザイン」には、そもそも同じ意味合いが含まれている。デザインの語源はラテン語のdesignareであり、de-signumであって、つまりは「脱・記号」である。そこから転じて、「記号から脱するように意味づけする」というのがデザインである。2200年ほど昔に生まれたラテン語に同じ着想があるのだ。
僕が自身から「新発想」など生まれようがない、という実感を持っているのは、こういう体験の連続から来る。僕が考えうる発想など、過去の人間たちが思いついていないわけがない。むしろ僕の人生よりも命がけで、孤独で、必死な人間たちが、思いつかないわけがないのだ。せいぜいパソコンや半導体やコンテナの上で、同じ発想を再現するくらいであるし、それだって逆に言えば石壁、羊皮紙、あるいはダマスカス鋼の上では僕らは再現できないのだ。
だからこそ過去を知り、歴史から学ぶことは大事なのだが、一方で、ただ知るだけでは空虚で役に立たない知識人ができあがってしまう。実際に自分で歩いてみて、探ってみて、どこかしらに行き着いてみること。そしてその上で先人の存在に気付くことで、知識と身体性が組み合わさり、智慧となるのだ。