知(あるいは、地)
僕の考え方は、簡単に括ってしまえば仏教的だ。無我、無情、色即是空といった感覚にかなり近い。仏教徒ではないので深遠に踏み込むことは遠慮するが、浅瀬においては近いモノを感じる。僕の考えるような「万物は流れであり、自身でさえも流れである」といったことは東洋哲学の世界における一つの軸である。
さても、そういった「流れ」の哲学において、「知」というものはなかなか統合しづらいモノがある。知とは蓄積だからだ。「流れ」と「蓄積」は相性が悪い。ややもすると相反するモノにさえ思えてしまう。
でも、僕の中では案外、上手く同居している。それを上手く言語化する術を僕は持たないのだけれど、「知を以てして流れよ」というような言葉がすんなり出てくるくらいに、同居している。
今無理やりにでも言語化するなら、「流れ」において、「知」とは土壌であり、山であり、地形であり、地核だ。流れの質や色、あるいはスケールを決めるのは「知」だ。
語弊を恐れず云えば、流れはとても良いのに、スケールが出ていないような方を見ることがある。それはおおよその場合、「知」が足りないのだ。
また、「知」が豊富であっても、流れが淀んでしまっているが故に「知」が凝り固まってしまうこともある。「知」もまた、流れなければ濁ってしまう。
・・・と、まぁ僕の中では割とハッキリした感覚なのだけれど、伝えるのは難しい。ウヤムヤな部分もなくはないからだ。川の「底」と「土砂」の境目がウヤムヤであるように。