イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

言葉のブレ

思えば僕らが使っている言葉というのはずいぶんとあやふやなものだ。いや、正確に云えば多分、日本語の読み書きというものが多様化しすぎたせいで、実のところ同一言語によるコミュニケーションがずいぶんと難しくなってしまったんじゃないかな。 インターネットができて個々人が繋がりを見せ、その中で言語がすさまじい速度で進化・変化している。本や手紙とは言葉の発行速度と消費速度が違いすぎる。ここ最近では「言語化」とか「考察」とか「分析」あたりは人による解釈の幅がありすぎて使いづらくなっている。ちょっと前は「見える化」だ。それは「可視化」にしてもそうだ。 言語化というと君は何を思い浮かべるだろう。それは「言葉にできないものを言葉に表す」というものだけれど、おおよそはコンテキスト(文脈)に使われるもの、というのが僕の解釈だ。「君への想いをうまく言語化できないのだけれど」といった風にね。 一方で、情報化=言語化という風な解釈もある。あるいは、ただの言葉足らず、書き損ないの補完を言語化と呼ぶケースも散見する。どれを正解というわけじゃなくて、「人によって解釈が違うよね」というハナシでね。 ちょっと前に「生成AIは確率論的に言語を結んでいるに過ぎない」という批評に対して「人間の会話もそうだ」みたいな反論をしているケースがあった。事実、ただ確率論的に問答して「会話が成立しているふう」な場面もあるだろうけれど、それはさっき言った言葉のブレ=文化のブレが同生活圏でも多発しているからだと思う。 一方で、文化圏が合致している時は必ずしも確率的会話にはならないんじゃないかな。
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