イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

感情という情報

僕には共感力がない。そもそも「共感」という概念を捉えきれずにいて、たとえば誰かが映画を観て主人公にすごく共感したなどと喋り出した日には「共感・・・?共に感じたの?何を?」などという疑念が頭に浮かぶ。30歳くらいまではそれを口に出して聞いちゃうもんだからずいぶんと失礼なことをした。挙句には「それは君が勝手に感じただけやんね」などと言い出す始末。こんなやつに共感力があるはずがない。 一方で、僕にはどうやら、感情というファクターを情報として捉える技能はあるようだ。これを学術の世界では「感情知性(エモーショナルインテリジェンス)などと言うようだ。インテリジェンスではあるかもしれないけれど、知性と呼ぶのは個人的には気に入らない。 さても、人間には感情がある。誰かに何かを働きかけるとか、あるいは人間が関わる物事に作用するには、「感情」という情報は無視できない大きなファクターだ。なぜなら人間という生物は、感情というものを含んだ論理体系の中で合理を選ぶからだ。その合理を突き詰めるなら感情は外せない。 僕ら自身がそうやって感情というものを含んだ論理体系にいるはずなのに先ほどの専門用語が必要とされるのは、感情を「情報」として捉えることが困難だからだろう。僕ら自身が「怒り」や「悲しみ」というやつを正確に捉えられない。ゼロかイチかというモノでもないし、複合的、グラデーションなものだし。 僕がそれができるのはある意味では「共感力がないゆえ」かもしれない。あるいは昔から「なぜ?」が気になる子どもで、自分自身の感情についてさえその疑問符を抑えられずに向き合い続けたせいかもしれない。
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