イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

商い、御用聞き

もう20年近く前だろうか。スーパーマーケットが広がることで商店街が寂れてしまう、そんなことを危惧する風潮が世間にあった。当時、和歌山に住む大学生だった僕は、すでに寂れてしまった近くの商店街を思い浮かべつつも、仕方ないものだよなと受け止めていた。 あれから20年近く経った今になって、ふとあの時の感覚を思い出す。僕が今、ビジネスやグローバリズム的市場原理に対して感じる欠損は、あの「商店街」と近しい気がする。つまりは「商い」が「ビジネス」によって追いやられてしまう、ということだ。 もちろん、すべての商店街が失うべきではなかった、などというつもりはない。スーパーマーケットを悪者扱いするつもりもない。便利なものは便利だ。とかく映画館との抱き合わせは見事なものだと思う。ずいぶんと映画が見やすくなったものだ。そもそも僕個人の性質でいえば「商い」が持つ性質、つまり贔屓や御用聞きみたいな関係性を伴う取引は苦手だ。だからこそ20年前の僕は「スーパーマーケットが台頭すること」を厭わなかった。 ただ、取引のやり方として、商品棚に値札がついたものが並んでいる、というだけのモノは好き好きじゃないのだ。それよりは「あんさんにはこれが似合うと思わさぁ」「ええなあ、これ」みたいなことが好きなのだ。 ああ、だからこそ僕は伊勢丹みたいなところが好きなのだろう。ああいうところが、今はどうか知らないけれど、お客さんごとに「加減」を変えながら御用聞きをする、というのは好きなのだ。
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