イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

考えた上で決め打ちする

最近、ハエの脳をデジタルにしたプロジェクトなどをよく見かける。おおよそ電子顕微鏡から得たニューロン発火モデルをデジタルにしたもので、脳を完全にソフトウェアにしたものでは全くないが、そこそこ見かける。ハエの脳にゲームをやらせたとか、なんだとか。 それにあわせて「命とは」とか「意識とは」とかを考えなきゃいけない、みたいな言論も見かける。それはそうだが、そんなものは昔っから考えられていたことだ。クオリアだのがわかりやすい話だが、ロボティクスやデジタルが発展するにしたがって何度も論じられてきたことだ。 僕の主観だが、そういった話題がむしろ「ここ50年〜100年ほど、後回しにされてきた」という感覚が近い。これはまあ、おおよそ科学的な答えが出そうにない問題であることと、それが資本主義において有用に働かない課題であるからだ。極論だが「ハエの脳をデジタルで再現したらかわいそう!やめよう!」じゃ儲からない。 まあ「問題に直面してから考えよう」というのはそれはそれで合理的ではあるが、おおよそチューリングマシンが構築されたあたりから僕らはそれに直面しつつあった。だからこそロボット工学三原則だとかチューリングテストだとかが考えられていたわけだ。 それに、僕らの世代においてこのあたりは最終的に「決め」の問題になると思う。たとえば静脈麻酔なんかも、あれは意識は完全に途切れるそうだが、実はその間、その個体は簡単な受け答えをしたり自分で歩いたりしているそうだ。もしかしたらその瞬間、僕らの「自意識」は実は完全にかき消され、別物に置き換わるのかもしれない。でも「そんなことはない」という決め打ちをしている。 自意識の証明はまだできそうにない。だからこそ、がっつり考えて、自分の立ち位置を意識する、というのが必要で、後回しにし続けていたら、いざという時に決め打ちできない。
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