イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

佇まいを中心に坐す

僕の今、目下の課題は健康なのだが、もう少し広い話をすると、生き方の課題はずっとある。これは仕事や老後や住処といった話ではない。今、この時、自分がどう在るのか。ちゃんと精神が今ここにあり、肩の力が抜けた状態で漲っているか。そういった部分をもっと突き詰めたいと思っている。 たとえばストレッチをしたりヨガをしたり太極拳をしたり瞑想をしたりといったことから始まる話だ。頭から手先、足先まで。あるいは呼吸。立ち方。歩き方。それらすべてにおいて、余計な力が入っておらず、かつ、流れに対して摩擦を生じていないか。 たとえば君が今座っているとして、姿勢を正して、坐骨から根を張り、腹筋や背中を意識しつつ頭の先までまっすぐであろうとすると、「安定している」かつ「力が抜けている」という姿勢があると思う。力を入れていないのではなく、抜けている。体が器としてバチッと安定する。 あるいは立っていても同じ話だ。頭から踵までバチっと安定するところがある。止まった姿勢だけでなく、所作においてもバチっと安定した動きがある。武道などはおおよそ、そうやって身体を器として安定させた上で力を流すものだと思う。ボクシングとかもそう。 僕の感覚としては、まずそういった在り方、佇まいが先にあり、趣味だ仕事だなんだというのは、その後の話なのだ。ところがどっこい、こういう話はスピリチュアルだの何だのと端に端にと追いやられてしまう。それを科学が「姿勢を正せば息が正しく吸える」というデータで引き戻しているが、そもそも、こういった在り方、佇まい自体についての問題を物事の中心に坐す。そういった生き方をしたい。 たまに出家や寺修行、あるいは道場通いを考えるのは、そのためだ。滝修行にそこまで興味はないが、日がな一日、体に意識を向けながら祈り続けるということには興味がある。
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