届けばいいな、でいい
最近、ふと「ほぼ日イトイ新聞」をよく見るようになった。反動なのか回帰なのかわからないけれど、これまでどこか魂が乗らずにほとんど見てこなかった。多分、「手帳」に引っ張られていたからだと思う。つまり僕は手帳を使わないから、手帳というものに重きを置いているように見えていた「ほぼ日」もなぜか見に行かなかった。変な話だ。一方で糸井重里さんのコンテンツには大なり小なり触れてきて感動してきた身だから、今「ほぼ日新聞」と触れるとものすごく肌に合う。一方で全然肌に合っていない部分もあって、そこはつまり「人をどのくらい信じているか」という部分な気がする。僕は、人を信じない。あるいはあまり人に近寄らない。でもどうだろう、それは僕が現代的な繋がりに対する疑念があるからのようで、その部分だけに着目すれば、実は同じ問題意識を持っているように見える。つまりは「繋がりってそういうことじゃないよね」という部分。いやまぁ勝手に思っているだけだけれど。僕はある種「そんな繋がりなら、僕はいらない」と思って距離をとっているけれど、ほぼ日では「繋がりの形をちゃんと見直そう」という試みをしているようにも見える。勝手にそう思っている。
そこの彼我を分けたのは、僕は「繋がれない人たちが生きていける世界」というものを追いたかった部分はあると思う。目に見える繋がりがなくとも、この空の下、この星の上で僕らはどうしようもなく繋がっていて、それだけでいいじゃないか、という部分だ。例えば「ほぼ日」の中では誰かと誰かの会話だったり、あるいはフリーマーケット的な場所における繋がりだったりが見える。でも僕は正直、そのどちらも閲覧者としては楽しいコンテンツだとは思えど、それをやりたいとは思えない。僕にとってそれは近すぎて疲れちゃう。例えば自然が好きな人の中にも、山に囲まれた街で過ごしたい人、休日に公園に行ければそれでいい人がいる。そんな人たちをいきなりジャングルの奥地に連れていっても「ちょっと濃いな」と疲れちゃうかもしれない。そんな感じ。
そういう意味で僕はきっと、どこかで人が好きなんだろう。でも近すぎると疲れちゃう。だからこうやって山奥から「届けばいいな」と手紙をボトルに入れて流している。それがどこかで繋がっていれば、それでいい。手紙を手渡しするのは、疲れちゃう。そんな感覚。