イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

人間味に帰ってくる

最近は「問題意識」という言葉が自分の中のトレンドだ。何かのアイデアを話した時にスーッと受け入れられる時とそうじゃない時があって、それは何かといえば「問題意識が違う」ということ。任天堂の宮本茂さんがそう語っていて、さすがは巨匠は違うなあを膝を打った。僕はWEB業界と呼ばれる世界でエンジニアをやっているけれど、ルーツはゲーム業界にある。ゲームに感動してコンピュータを知り、ゲームを作りたくてモノづくりを学んできた。それがのらりくらりとして今WEB業界にいるんだけれど、この2つの業界は問題意識が全然違う。だからこそ僕が活躍できる場面もあったろうし、それが故に苦悩する日々を送ってもいる。わかりやすいところでは、操作した時の速度とか触り心地とかは、WEB業界において問題意識を向ける人はほとんどいない。一方でゲーム業界においてはファミリーコンピュータの時代から研究され尽くしてきた最重要問題だ。で、僕は後者の問題意識を持つから「その触り心地はユーザは触ってくれないよ」とよく言うんだけれど、それがなかなか共感されることはない。だから僕は実際に作ってみせて「ほら、こっちのほうが気持ちいいでしょ」って案内する。 はてさて、仕事の話として捉えたけれどこれって別に仕事だけじゃないよね。対人関係におけるすれ違いとかなんだとか、そういった事象の中には「問題意識の違い」ってのは結構のさばっている気がする。僕は例えばトイレの便器のフタを必ず閉める人だけれど、一方でフタを開けっぱなしにしても気にしない人がいる。これも問題意識の差だ。僕は「フタを開けっぱなしにすること」に問題意識を持っていて、一方そうじゃない人もいる。そうやって問題意識ってやつに目を向けると、じゃあなんでこの人はそこに問題意識を持たないんだろう、って興味がわく。ちょっと前までは「常識がないんじゃない?」とか偉そうに言っていたことも、もしかしたらもう少し穏やかな目線でいられるのかもしれない。 一方で「問題意識を持っていないところに目を向けさせる」っていうのは、どうしてもできる気がしないよな。だからうん。人を変えるってのは難しいよな。そこには本当に問題があるんだろうか。例えば僕は野菜を洗わないけれど、それはそこに問題意識を持っていないからだ。虫が混ざっているからってどうだっていうんだ、と。一方でそれが絶対に嫌な人がいるわけで。そこに橋を架けることなんてできるのかな。 でもそう考えると、結局は「僕は気にしないけれど、君が虫をキラいだっていうんなら洗うよ」って思うから、相手を好きかどうかとか、そういう人間味のところに帰ってくる気もする。仕事の話をすると、「わかんないけれど、君が言うんだったらそうするよ」っていうふうに思ってもらえるか、あるいは相手のことを思って任せられるか。結局は、人になるのかなあ。いかがでしょう。
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