イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「やりたくない」と「やらせてください」が

今日は仕事だったから、ふと仕事のことを書き始めそうになる。仕事のことばかり書いてもしようがないよな、という頭がある。でも一方で、自分の中ではあまり「仕事」と「それ以外」を明確に分けるようなことはしていなくって。むしろそこを分けようとするから不健全な方に流れていくんじゃないかなあという気がする。よくある言葉として「お金が必要だから」っていうんでお仕事を引き受ける。そりゃあ大事なことだとも思うんだけれど、それは「嫌なこともする」っていうのとは紐づかないと僕は思うんだよな。 もちろん、そもそもお仕事ってのは「誰かがやりたくないことを代わりにやる」っていう構造のものではあるんだけれどね。だからこそ、「誰もやりたがらないけれど、誰かがやらなきゃいけないこと」ってのは高賃金になるわけで。でも、そっちを追っていったらなんだか大事なものを見失うんじゃないかなあと思うんだよ。で、その大事なことってのは、「仕事」に大きく関わる大事なことなんじゃないかな。 つまり「仕事だと割り切ること」が実は、「仕事」を不健全にしているように思うんだよ。僕自身の体験として「これは仕事だから」と思ってイヤイヤやったことって、成立しなかったことがほとんどだもの。それよりも、誰かがやりたがらないけれど、僕は「ぜひやらせてくれませんか」ってことも世の中には割とあって、そういうのはちゃんと健全に流れていく。いい仕事ができたな、って思うのはそういう時が多いと思うんだよな。 例えば僕はこうやって文章を書いているけれど、これって「ぜひやらせてください」ってことなんだよ。それに、使い心地の良いモノを作るとか、そのために色んな世の中のモノに触れていくってことは、それ自体が僕にとってはぜひやらせてほしいこと。でもそれで喜んでくれる人がいて、仕事になる。これが、仕事を澄んだ流れに持っていくんじゃないかな。別にハードワークしろとか、好きを仕事にしろ、ってんでもなくてさ。 それこそ「誰かがちょっと喜んでくれる」とかは、むしろみんな「やらせてください」じゃないかな。だとしたら、例えば電話が好きじゃなくても、コールセンターの仕事で、「ありがとう」をもらおうとすることが好きなら、それは健全な流れになるんじゃないかな。
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