「おろそか」ということば。
ここ最近は「ことば」というものと少し近い距離感を保ちながら普段過ごしている。石川九楊さんという書道家さんが「ただ文字が書ければそれが書というわけではない」というようなことを語っておられた。本当にそうだなと思う。文章力というのはそれっぽい文章を書く力というわけじゃない。それはコミュ力というものがただ口達者かどうかというわけじゃないのと同じ。身振り手振り、表情、あるいは立ち振る舞いや佇まいといったものがコミュ力というものに影響を与える。それと同じでどういう言葉を選ぶのか。ひらがなかカタカナか漢字か。さらに言えばどういうリズムで書いていくのか。それが全て影響を与えて文章というものができあがる。
それは読み手にとってもそうで、どういう環境で読むのかという部分が文章にとても影響を与える。極論を言えば、何かを受けて落ち込んだり喜んだりするのに一番影響を与えるのは、当の本人が「落ち込みたい気分か」「喜びたい気分か」という部分だ。これは御徒町凧さんという詩人さんが言っていた。「残念な話だけどね。」と添えながら。でも実際そうで、そういう感情・感傷に心が開いている状態かどうかが真っ先にある。いくら素敵なことばを紡いでも、受け取り手の心がそちらに開いていなければ届かない。
一方で、「閉じさせないようなことば」という面もあって、強い言葉を使うと人は反対方向に振れてしまう。関係性のない相手に「好きだよ」と言っても警戒させちゃうような感じ。今年に入ってから僕はよく、「なんでこれ伝わらないかなあ」と頭を抱えることが多いんだけど、その要因の一つにはことば選びがあったんじゃないかなあと思っていて。簡単に言えばていねいにお仕事しませんか、ということなんだけれど、なんだか伝わらない。「ちゃんとしましょう」って言っても警戒される。「雑じゃないですか」もそう。「焦っていませんか」も伝わらない。それが今朝、歩いていたら「おろそか」ということばが、ふっ、と頭に出てきて。これはいい言葉かもしれないなあ。「おろそかになっていませんか」という言い方。
多分、「おろそか」って言葉が普段はあまり使わない、どこか非日常を含んでいるからかな。「ちゃんと」「雑」「焦って」みたいな言葉は普段から遭遇するでしょう?しかも日常で遭遇する場面はおおよそ説教の場面だから身構えさせちゃう。心が閉じちゃうんだよね。でも「おろそか」ってなかなかであわないから、そういう心を閉じる作用は少ないんじゃないかなあ。どうかな。