乏しいからこその表現
友人が最近、クロノトリガーというゲームを始めたらしくて。クロノトリガーは30年くらい前に発売されたゲームで、ゲーマーなら誰でも知っているような有名作品なんだけど、それを彼は最近始めたらしく、「すごいおもしろいよ、イオリン」と息巻いて話してきて。僕は30年前の当時にプレイしていてすごく好きな作品だったから、「そうだろう、そうだろう」となんだか得意げになりつつ、やっぱり面白いよね、あのゲームというのを確認していた。
一方でクロノトリガーのようなレトロゲーRPGの表現って今はとんと見かけなくなった。それは別に昔は良かったという話じゃなくて、今のリッチなコンピュータ環境においては昔の時代の表現が意味をなさなくなったということで。糸井重里さんがMOTHERというゲームを作ろうと思った時の動機として語っていたんだけれど、「ゲームという表現においては "あなたが好きだ" というセリフが使える」というのが糸井さんはとても魅力に思ったそうで。小説で使うとダサい。歌にしても厳しい。でもゲームだと使える、と。そういう魅力がたしかにファミコンやスーパーファミコンという時代にはあった。でも今はゲーム上の表現も映画みたいになってきているから、今のゲームにおいて "あなたが好きだ" という表現はなかなか使えなくなっている。言葉をとってもそうだし、ストーリー展開としてもそうで、あの16bitの世界でしか使えない表現やケレン味がある。
クロノトリガーの作曲家の光田康典さんが「映像や表現がリッチになるにつれて、BGMというものは不要になっていく」というふうに語っていたことがある。映像での表現が乏しかったからこそメロディやサウンドによる表現が使えたわけで、映像による情報が増えていくにしたがってメロディなどは不要になる、と。
突き詰めれば「散歩」や「旅行」なんてものも似たような話で、「スマホを持ち歩いての散歩」「準備万端の旅行」では、豊臣秀吉がやっていたような湯治の旅は味わえていないんだろうな。