イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

デジタルでアナログを追う

僕は普段からコンピュータと馴染みのある生活をしている。お仕事だってコンピュータを使っているし、そうじゃない時間もコンピュータを使っていることが多い。今もこうしてこの文章はコンピュータを使っているわけだし。でも一方で、自分の根っこの部分は0と1を積み重ねる理屈の外側にあるという感覚がある。いや、多分そこの区別がないのかな。デジタルもアナログも区別なく、デジタルでアナログな感覚を追っている。そういう矛盾めいた行動をとっている。 例えば、僕はこうやって言葉を書くことが好きだ。でも、それで追っているものは多分、言葉になる前の「何か」だ。その「何か」に近づくために、どういう言葉を、どういう文字を使うべきかをずっと考えつづけているんだと思う。言葉っていつも後付けで、「何か」に近い言葉をはっつけているだけに過ぎない。そういう意味・・・つまり「形にする上で何かが削ぎ落とされている」という意味では言葉もどこかデジタルだね。 一方で削ぎ落ちているからこそ出る「何か」もある。余白に何が見えるか。媒体によっても変わる。最近僕はここに書いている手紙を「メールマガジン」にしたいなあと思っている。置いてある文章を見に行くんじゃなくて、届くもの。それによってもまた、意味は変わる気がする。こういうところだよね、デジタルでアナログな感覚を追っている、ってのは。
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