わかろうとする
書道家の石川九楊さんの話でね、「書がわからないという人がいるけれど、その実はわかろうとしていない」という話があって。「わからない」「難しい」と言いながら、わかろうとしていない。書なんて真摯に向き合えばとても簡単なのに、そこに向き合おうとしないから、わからないままなんだよ、と。この話は最近見聞きしたなかでも結構好きな話でね。これは「わからない」ってなんだろう、「わかる」ってなんだろう、っていうのを考えさせてくれる話だな、と。つまり、「わからない」って言う言葉が「わかってるつもり」を含んでいる。
ソクラテスの無知の知ってあるでしょう。あれば自身の無知を知ることが、真に知識を得るための第一歩なんだよ、っていう話でしょう。それは確かにその通りなんだけど、なんだか「知らない」「わからない」ということが一つの賢さのステータスみたいな側面を持つことがあって。「わからない」というのは「わかろうとする」とセットだからこそ色々とひらいていくものじゃないかね。無知の知ってやつの根幹は「無知」じゃない。わかろうとする姿勢のほうで、それは「無知の知」っていう言葉からは抜け落ちているんだよなあ。
ここから一歩踏み込んだ話をすると、わかりあうってのは「お互いにわかろうとする気持ち」がいるんだろうね。それは個人の努力もあるかもだけど、「わかろうと思えるくらい、尊重できる相手と共にいましょう」みたいなところにもあるかもしれないね。