言葉よりも先に
ここ10年くらいで意味を成さなくなった言葉っていっぱいある。例えば「丁寧」っていう言葉はもう、その言葉通りの優しさ、柔らかさはなくなっていて、むしろ押しつけがましさを感じる。「丁寧だけど迷惑だよ」っていう言葉が成立するくらいには、丁寧という言葉の受け皿は狭くなっている。ここの代替として僕は「おろそかにしない」というのを使う。「おろそかじゃないけれど迷惑」ってのはまだ成立しないでしょう。それは「おろそか」という言葉の受け皿としてのやわらかさがあるから。
言葉自体が意味を持ち始めると、言葉は「レッテル」になってしまって使えなくなってしまう。最初からレッテルになっちゃっている言葉もあって、「サステナブル」なんて日本語の表舞台に出た当初からいろんな人たちの意図で手垢まみれになっていたでしょう。サステナブルなんて今言われても、余計な意味合いが付随してきてうるさくて仕方がない。「ずっと続くよね」って言ったほうがいい。
言葉というものは、まず対象となる意味が先にあって、そこに当てはめるもの。言葉自体はただの言葉だ。その言葉自体が意味を持ち始めるというのは、言葉じゃない別の何かになってしまっている。そんな言葉じゃない何かを操っていると、会話も変に空中戦になってしまう。「丁寧な暮らし」ってのもまずそんな言葉ナシでいろんな人たちがいろんな生き方をしていて、それを後から「丁寧な暮らしだね」って呼ぶものでしてね。「丁寧な暮らしをしましょう」だなんて、佇まいに先立つものじゃないよ。
言葉は大事だけど、だからこそ言葉を高尚なものにしちゃいけない。言葉に先立つ意味、在り方みたいなものがある。