余白の創作
大学でデザインを学んだ中で、「引き算」というものは今でも大きな知恵になっている。問題を目の前にしてその対応策として何かを作る時、僕らは足し算で考えがちだ。何かが足りないから問題が起きているんだと考えがちで、足りないものを増やそう増やそうとしてしまう。でも、そうやって増やしていくとごちゃついて複雑になってしまう。例えば広告ポスターで伝えたいことがあるなら、いっそのことそれ以外を全部消してしまったほうが、装飾を増やすよりもずっと伝わることがある。そういうふうに「引き算」を考えることはデザイン、ひいてはモノづくりにおいてとっても重要な要素なんだよ、と。
扨(さて)は昨今、生成AIがどんどん発達していて、今朝なんかは「業務ツールとかもエンジニアに頼まず自分たちで自由につくれるようになる」なんて記事を目にしてね。すごいなぁなんて思うんだけれど、それは足し算をもっと加速させていく。今僕らはなんだか忙しいけれど、それらは足し算の連鎖の結果のように思うんだよ。インターネット速度が速くなり、コンピュータが速くなり、新幹線や飛行機もできたおかげで、本来はできるはずだった余白に足し算を詰め込みすぎて。そのせいで、「できるはずだった余白」どころかもともと存在していた余白まで食い潰されていって。スキマ時間の奪い合いだ、なんて言ってね。そのスキマ、その余白には温かい何かが漂っていたわけで。手紙を送って、届いたかなあ、なんて想いに耽る時間は大切な余白だったわけでね。それが今は「なんですぐ既読つけないの」だなんて言い出すわけでしょう。そりゃあ忙しないよな。
まぁ「アレもコレもできる」に目を奪われるのはわからなくもないけれどね。それこそ大学とかで学ばなきゃいけないくらい、モノづくりにおける「引き算」ってのは得難い概念なわけだしさ。でも、足し算よりも引き算のほうが創作って感じはするよな。だって人が手で動かしたことよりも、余白で考えることのほうがずっと無限大だもの。