イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

私はいいのよ

別のところでは書いたと思うんだけれどね。メタルギアソリッド3というゲームの中で、主人公スネークとその師匠ザ・ボスとの間でタバコに関する会話があって。師匠がタバコは体に毒だから控えなさい、って助言して、スネークがアンタもタバコ吸ってるじゃないか、と返すシーンがあってね。その時の師匠が「私はいいのよ」ってしれっと返答していて。このなんでもないシーンが僕は15年以上も心に残っている。「私はいいのよ」って一見むちゃくちゃな発言のように思えて、色々なことの説明がつく気がする、いい言葉だなあ、って10代の頃に思ったのを覚えている。 ある種「私はいいのよ」ってのは自分自身を守るためにもすごい大事な言葉なんじゃないかな。特に昨今は世界が繋がって科学も進歩したおかげで、社会における通念というものが見えやすくなったり、あるいは社会的に不正解な行動というものが明らかになったりするでしょう。お酒は体に毒。夜更かしも良いことはほとんどない。常にポジティブでいましょう。人にやさしく。人脈を広げて。SDGs。色々な単語によって僕たちは社会化を余儀なくされる。 もちろん誰かに迷惑をかけちゃうのは控えたほうがいいけれど、個人の範囲で嗜んでいること、自然とやりたくなってしまうことに対してまで社会化させようとしちゃうと大事なことまで見失っちゃうんじゃないでしょうかね。たまに「やりたくないけど社会で生きるために仕方なくやる」みたいなのを見かけるけれど、「やりたくない」という部分を社会化させるのはすごい恐ろしいことじゃないかな、と思う。僕はそういうのを見るたびにゾッとする。 「自分を殺して社会に尽くすほうがいいよ」「誰かのために身を粉にするのはいいことだよ」という社会的美徳を唱えながら、一方で「でも私はいいのよ」って言えるくらいのほうが、回り回って社会のためになる気もするよ。社会ってのは私の集合体なんだから。ダブルスタンダードでもいいのよ。そんな背中に支えられる人だってきっといるでしょう。 もちろん、胸張って「私は仕方なく生きるという生き方でいいのよ」と言えるなら、それはそれで素敵ですよ。それだって「仕方なく生きてもいいんだ」っていう誰かの後押しになるんだ。
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