イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

言葉じゃない存在

森山直太朗さんの楽曲でね、「悲しいんじゃなくて寂しいだけさ」っていう唄があって。この言葉って良いよね。寂しさという言葉が浮き彫りになる。誰かと別れたり、あるいは飲み会が終わったり、旅行の帰り道だったりで、なんともいえない寂寥が心を漂うことってあるでしょう。でもそれって決して悲しくはなくって、寂しいだけ。別れたくなかったわけじゃない。むしろ良いところでお開きにできて良かったね、と思いつつ「終わっちゃったなあ」という感覚がある。でもそんな気持ちで歩く夜道は少し心地よかったりする。そんな寂しさは、決して悲しくはないんだよね。泣けてくる、ってだけで。 そういう「近いけれど違うよな」っていう感情って結構潜んでいるんだよね。身近で感じやすいモノとしては「嫌い」と「知らない」ってすごい近いところにある。ここをちゃんと区別しとかないと、「単に知られてないから煙たがられているだけ」ということに気付けなくて「僕は誤解されている」だなんてありもしない悩みを持ってしまう。逆もあって「知らないって言ってるけど、嫌いなだけ」っていうケースもある。その場合はいくら説明をしても無駄なんだけれど、ごっちゃにしていると気付けない。こういう「似ている場所にあるけれど実は違う感情・感覚」ってのは意外と多くてね。 場合によっては「これ、まだ言葉になってないな」っていうケースさえもあるのよ。それって存在しないわけじゃない。「なんか、いいねぇ」「なんか、やだなぁ」って、「なんか」っていうのが一番ふさわしい言葉なだけで、間違いなく存在しているのよ。恋でも愛でもないし生理的でもないんだけれど「なんか好き」があるように。それって存在しないことにはならないでしょ。 もしかしたらそれは「ひまわりみたいな気持ちになる」みたいな、一見して遠回りに見える言葉や一節かもしれないし、メロディかもしれない。そうやって俳句や唄が生まれるわけでね。言葉にならないならば踊りませんか、ってなもんで。 最近僕は特に「説明できなくても伝えてもいい」と思っている。説明できることなんて、たかが知れているよ。
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