アイデンティティは流動的なんだ
誰かがアイデンティティだと思っているものが、実は気のせいだったりする。なんだったら「アイデンティティ」っていう言葉も実態はなくって、ただの言葉でしかない。「確固たる私」あるいは「確固たるあなた」という概念を表すただの言葉。そういう定義の言葉だから一見すると確固たるモノのように見えるけれど、実際はアイデンティティなんて流動的なんだよ。身長190cmある人は、一般的な日本人男性の中では「身長高いね」っていうアイデンティティだけど、バスケ選手のグループに入れば「普通だね」になるでしょ。「私人見知りなんです」っていう人も、人見知り同士の中に入っちゃえば「普通だね」になる。
おもしろい科学実験があってさ。ある教室に人を集めて、一枚の紙を渡して「ここにあなたの個性・アイデンティティを30個書いてください」みたいなお願いをするの。そうすると被験者たちが「何を確固たる自分の特性だと思っているか」が集まるんだけど、その内容は「集められた他の人たち」に依存する、って結果が出たんだ。女性は男性が多いグループにおいて「私は女性です」と書くけれど、女性が多いグループではそれは書かない。「私は女性です」っていうワタクシ像は消えるんだ。
つまり「確固たる私」ってのは、実のところあんまり信用ならないんだね。「アイデンティティ」という言葉の意味は「確固たる私」っていう概念を表しているけれど、それは概念であって実際は流動的なんだ。一方で言葉をはっつけると分かった気になるから、「私はこうなんだ」あるいは「あいつはこうなんだ」っていう風にはっつけたくなる。それは危ないよね。
僕はたまに「人を好きになったり嫌いになったりすることはない」と言うんだけれど、それは「だって流動的なんだもん」というところから来ている気もするね。「一緒にいることは好きだよ」っていうことと「その人が好きだよ」っていうのは別。それを人は「その人が好き」と言うのかもしれないけれど。