イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

変わらないから気付くもの

仕事仲間とお昼ご飯を食べに行った時の会話の中で「オシャレな料理ってなんだろう」という話題になった。その中で料理名がいくらか出てきたんだけど、僕はそもそも料理名をほとんど知らないんだなあ。別の飲み会で「カクテキって何?」って聞いたら驚かれた。キムチにおける大根を四角く切ったやつのことらしい。僕はずっと「四角いタイプのキムチ」くらいにしか思ってなくて、料理名があるなんて知らなかった。それの連続だ。でもナムルは「ほうれん草のナムル」であって固有名はないらしい。難しい。 僕は食事というものに、能動的興味がない。おいしいものを食べるのは大好きだし、知らない料理店とかに入るのも好きなんだけれど、そういう意欲がわくのが本当に珍しい。だからこそ、誰かに連れていっていただくのは本当に嬉しいし、そういうお店をいっぱい知っている人を見ると「すごいなぁ!」と思う。僕が住んでいるところに誰かを招待しても、紹介できる料理店なんてほんと少ない。あ、でも綺麗な景色が見えるそば屋さんがあるな。 そもそも生活における能動的な瞬間というのは少ないんだな。だからこそ田舎の生活が性に合っていてさ。つまり、毎日同じ生活をしていても、周りの景色は全然違うわけさ。東京だって毎日違うけれど、自然のダイナミズムには敵わない。山々の色は移りゆくし、空模様だって季節によって全然違う。ちょっと前まで巣にいたツバメが今は空を飛んでいるし、トンビも「なんかずいぶんデカくなったな」みたいなことを感じる。渡り鳥がやってきたり、あるいは飛び去っていったりする。 そういうのはむしろ、自分が変わらないからこそ感じられる気もする。演劇とかでも「見せたい変化があるなら、それ以外は変化させてはいけない」という技術があるけれど、それに違いかもね。逆に東京にいるなら、自分も含めて色々と変化させられないと飽きちゃうんだろう。
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