イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

見たまんま

今週は意識して夕日を見るようにしている。このあたりは春終わりから夏先くらいの時季、空の雲模様が本当に綺麗でね。日没ごろはそれらが目まぐるしく色を変えながら夜の帳が降りてゆく。青い空が紅く染まり、それを往復しながら藍色の夜になる。たまに写真を誰かに見せつつ「現物はこれの100億倍すごいよ」と言うんだけれど、本当にそう思う。特に夜の始まりは写真だと全然綺麗に撮れないからね。 そういう夕暮れを見ながら、考え事をひも解いていく。夕暮れの圧巻さは「見たまんま」に捉えることを何度でも教えてくれる。今ぼくが上述した説明も、本当にその美しさを表すにはどこか煩わしい。「知りたかったら、見にきなさい、すごいから」のほうがずっと良い。そうして見たまんまを見たまんまとして捉える。あるいは聞いたまんまを聞いたまんまで捉える。それを説明、証明しようとするかから変なことになるよな。「夜の帳が」なんて言葉が、僕は風情も含めて伝わるかな?って思っているけれど結局は受け取り手次第。 言葉を共有するより、感覚を共有するほうが真実味を帯びている。「あなたが好き」だって、現実はもっと別かもしれないよ。ウソはついていなくても、真実を捉えているとは限らないもんね。夕暮れという言葉と同じで。
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