イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

変わりながら、話す

僕はあまり人と関わるほうじゃない。そんな僕でも、たまに誰かと感覚を共有できた時にはものすごく嬉しい。例えば、何かを説明する時でも、まだまとまっていないけれどとりあえずバーーっと説明してみて、「で、どう?」と聞き直す。その時の僕は「何も伝わらないかもしれないなあ」という感覚があるんだけれど、その時に「わかります、〜〜ということですよね?」と返ってきて、それがピタッと重なっているとすごく嬉しい。 でも、それは現象であって相性じゃないと思う。つまり「AさんとBさんの相性がいい」みたいなことって、打率の問題であって本当に2人のパズルのピースが合っているわけじゃないと思うのさ。たまたま、その瞬間、色んなことが重なってその現象が生まれたというだけでしかないな、と。そして、その打率が高い時に「相性がいいな」という思いが生まれるだけでね。そこには不断の努力があると思う。 その一つはきっと、互いに「わかろうとしている」ということ。最近の出来事を思い浮かべても、必死にわかろうとする姿勢が互いにあった時にその「重なり」が生まれるし、逆に「わかってくれない」とか「いいからわかってくれよ」みたいな気持ちがあると、この重なりが生まれることはない。どれだけ平易なことでもね。それは、言葉というものが結局その程度ってことだ。音楽やダンスほどにはモノを言わないのさ、言葉ってやつは。 逆に「わかろうとしている」という気持ちが互いにあると、結構複雑なことが一発で伝わることもある。この「わかろうとしている」という姿勢は説明をする方も大事。話しながら絶えず「どう思っているだろうなあ」「今のところ伝わりづらいかもなあ」みたいなことを思う。その姿勢の微調整があるんじゃないかな。そのインタラクティブ性が「話す」ということの意味だね。互いが変容しないとね。
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