気のせいだとしても
共感っていう言葉が当たり前に存在しているけれど、果たして「共感」とは何と何が共に感じているんだろうね。素直に捉えれば「私とあなた」なのだけれど、「私」とは?「あなた」とは?案外とあやふやだよね。
こういうことはおおよそ、キリストさんが生まれるよりも前から誰かが考えていて。そういった人たちの知見によると、どうやら僕らは「あなた」という存在を証明することはできないっぽくて、つまりは共感ってのは「気のせい」なんだね。こう書くと悪いことのように見えるけれどそうじゃなくって、「共感している」という気のせいが生まれること。それは共感というアイテムを見つけることよりも素敵なことだと思うよ、僕は。「気のせい」とは言っても、それはそれとして僕らはその「気のせい」の世界に生きているのだから。
つまり遠く離れた土地の人とも、あるいはこの世とあの世で隔たれている誰かとも、なんだったら人じゃない何かとも、僕らは共感ができるということで、無限大だ。僕の母はルンバを可愛がっていたけれど、アレも立派な共感。「心が通じる」という現象の可能性の広さだね。