イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

ゴキゲンで

ここ1週間くらいは「ゴキゲンでいること」を少し意識している。といっても独りで過ごしているから別に誰かに何かをするとかではなくてね。自分自身が自分の在り方としてゴキゲンでいること。これがなかなか僕は難しくてね。僕はむしろフラストレーションをためやすい人間だと思う。そもそもいつも素の状態でゴキゲンでいれたら文筆や創作なんてやってないんじゃないか?とも思ってしまうけれども。 でも機嫌悪くしていて良いことってほとんどなくって。感情を抑制すべきとは1ミリも思わないんだけれど、上手い形で「ゴキゲン」へと昇華できる方法はあるんじゃないかな、と思う。例えば僕は所ジョージさんが好きなのだけれど、彼はいつもゴキゲンでしょう?でも世の中に文句がないわけじゃない。むしろ強い方のようにも思う。唄にするくらいだからね。でもゴキゲンでしょう。つまり不平不満や文句とゴキゲンなまま付き合っているんだね。文句をなくそうとすると、むしろゴキゲンではいられなくなってしまう感覚すらあるよ。 まあ肩の力抜いて自然体に、ってのが落とし所なんだと思うけれど、これがしょっちゅうグラグラと揺さぶられるんだね。誰かに求められて浮かれちゃうのもあるだろうけど、「社会ってこういうもんなんだ」ってのは生きてる限りつきまとうからね。税金は払わなくちゃ怒られるし、空調が効いた部屋にいられるのも、遠い友人と簡単に会話できるのも、こうやってパソコンで文章を書いているのだって、社会のおかげだからさ。「君が生きているのも社会のおかげなんだから!恩返ししなさいよ!それが社会よ!」と言われたら言い返しづらいよな。そうやって揺さぶられて気付いたら変な姿勢になっちゃってる、みたいなことが、ゴキゲンでいられなくなる原因なのかもしれないね。 でも、知らないところで社会に支えられているなら、知らないところで社会の役にも立っているのさ、きっとね。それは社会じゃなくて誰かかもしれない。お互いに。そうであれば、自然体でいることは肯定してもいいのかもしれないね。何よりゴキゲンでいること、それ自体が、僕や君を気にかけてくれている誰かに対する恩返しに成りうるモノだろうしね。
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