イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「万物はXである」

西洋哲学においては、「万物はXである」と言えるXを唱えている方々がいる。ヘラクレイトスは「万物は火である」とし、タレスは「万物は水である」とし、アナクシマンドロスは「万物は無限定しない何かである」と唱えた。この辺りの哲学史は面白いんだけれど、はてさて自身の哲学や世界観を考えるときに「万物はXである」と言えるXを考えるのは面白いんじゃないかな。 僕の場合、「万物は流れである」と言い切れる。川、でもいいかもしれないけれど。すべてのモノは流れていて、その流れが澄んでいるか滞っているかどうかで物事を見ている。 自身についても流れが澄んでいれば機嫌も良いし体調も良い。寝起きに水を飲んで朝にしっかり歩くのも、自分自身に澄んだ流れを入れるため、という感覚がある。一方でそういうことをしっかりしてないと流れが滞り、さまざまな不調を来す。 お仕事についても、流れが澄んでいれば上手く進むし、滞っていれば淀み、濁りとなって仕事が進まなくなる。だから僕の仕事は「流れを見て、滞っている部分を流れさせたり、汚れを生んでいる大元のゴミを取り除いたりして、澄んだ流れに戻すこと」だと思っている。 まぁこれは僕自身の感覚にすごく近いハナシだから他の人と共有するのは難しいんだけれどね。僕の場合は「流れ」という単語を使うことで色んな物事の説明がつくんだ。そういう何かがきっと色んな人たちの中にもあるんじゃないかな。「なんかいいね」とか「なんか違うよね」をもうちょっぴりだけ具体化するための単語。「それいいね、流れてるね」とか。「それちょっと違うね。流れが滞っちゃってるもん」とか。 この世に物理法則があったとしても、結局各々で生きている世界観がちがうんだから。曖昧な何かでもカチッとハマるならそれが僕や君の世界にとっての法則だと思う。
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