幸せの反対
ある人たちが「幸せの対義語は孤独かもね」と言っていた。僕にその感覚は全くなくて、むしろ孤独って救いに近いというか。色んな人の自意識になぶられてごった煮になる世界において、ポーン、と雫を落として空白を作ってくれるような。そういうモノだと思っているんだけれど。一方でその人たちの会話では「人といることによる幸せの割合が人生で大きすぎるもんね」と。
ここで疑うべきは「孤独」という言葉のほうだ。僕が表す孤独と彼らの使う孤独は違うし、なんだったら他者という存在も僕と彼我で違う。たまたま使う言葉が「孤独」で重なっていただけで、表したいことが全然違う。僕にとって孤独は雫によって生じる透明な波紋。でも多分、ある方々にとっては欠損なんだろう。そこには「寂しさ」という主観の有無があるわけだね。
僕の世界では寂しさと孤独は紐付かない。むしろ誰かといる時に寂しさを感じることが多い。飲み会とか旅行だとかなんだとかでむちゃくちゃ楽しい時とかに寂しさを感じる。人といることによる幸せを感じるほど、「この時間は終わる」とか「みんな帰るところは別々だ」とか、そういうことを不意に感じちゃってね。「頼むからもう少し眠くならないでおくれよ」とかを自分にもみんなにも思っちゃう。それは寂しさだろう。
一方で、「寂しさ」と「悲しさ」も紐付いていないから、そういう寂しさを感じるのも一つの味わいだと思っているけれど。飲み会の帰りに寂しさを香りながら歩く夜道は、結構良いものだよ。それが毎日続くとごった煮になるから、孤独が必要になるんだけどもね。
寂しいときが必ず悲しいときではない。あとは悲しさって案外「寝不足」とかとくっついてんだよな。そういう意味では幸せの対義語は案外、寝不足とかかもね。