イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

品種に応じて

「30歳を越えたらもう手遅れ」みたいなハナシがある。一方で「いつからはじめても遅くはない」みたいな言葉もある。こういう時、大抵は前提がズレているものだ。30歳を越えたら手遅れな範囲もあれば、いつからはじめても遅くはない、という範囲もいる。 おおよそ人の根幹を変えるというのは、30歳を越えたら難しいんだと思う。僕自身がそうで、僕の世界観の根幹はもう形成されちゃっていて、そこにつく枝葉の変化しか起こらない。より正確に言えば、根幹ごと変えると大抵うまくいかない。針葉樹は海藻として生きてはいけないでしょう。そういう意味で30歳を越えたら品種ごと変えるのは不可能に近いと思う。 一方で、30歳までに「ある程度適応できまっせ」という品種になれた人は、割りとそこからは「いつからはじめても遅くはない」という世界観で生きることができると思う。それでも、根幹は「適応しないと生きていけない」という品種であって、逆に飽きっぽいとか、同じことを続けることはできない、みたいな欠点があるもんだ。 やれ教育だなんだというハナシも、30歳を越えたら「品種に適応した教育」というのを考えないといけないんだろうなあ。そうでないときっと、よっぽどツラい目にあわせることになるんじゃないかあね。 それはそれとして、一見矛盾している言葉同士も前提のすり合わせをすれば案外解消するものだよね。「ダイエットしたい」「甘いもの食べたい」みたいな欲求の矛盾も似たように解決できる。両取りするための思索こそが、アイデアと呼べるものだね。
前へ
一覧
後へ