身勝手に、心配
先月はとにかく東京にいたけれど、今月は一度も行かないかもしれない。来月も行かないかもしれない。世間的には今週末から夏休みだそうだし、そうなると高速道路も混むだろうな。長時間運転は楽しいけれど、渋滞につかまるとさすがに疲れるからね。まぁ用事があれば行くし、用事がなければ行かないというだけ。
さても長野にいると、心身は好調に向かう。まぁ東京と長野との比較に限らず、ホテル暮らしと家の暮らしの違いもありそうだけれど、とはいえ自然の豊かさが違う。鳥たちもいるから、孤独感は長野のほうがない。恋人との暮らしに近いかもだね。一緒に何かやるのもいいけれど、一緒の空間で別々のことをやっていることも良いもんでしょう。たまに同じ川を見て同じようにぼーっとするくらいでいい。お互いに警戒心を煽らない距離感でね。
まぁ何を心地良いと感じるのは人それぞれだけれど、東京にいると人の意識が強くて。ソレが故に「人の在るべき姿」みたいな固定観念・世界観が大量に転がっているように感じてしまうんだな。努力しなきゃいけない、とか。賢くないといけない、とか。稼がないといけない、とか。そこから踏み込んで「イオリンさんはこういう人間だ」みたいなのにも気圧される。
そーいうのはまぁ自分自身で思う分にはいいと思うのよ。キリッとしてみましょうかね、って自分で思う分にはいいけれど、「別に賢くなりたいわけじゃないんだけどなあ」という状態でも、なんか「賢くありましょう」とか。「友だちはあんまりいらないんだけどなあ」って思っていても「仲良くなりましょう」みたいな世界観を押し込まれる。
繰り返すけれど「賢くなりたい!」「友だち欲しいよね!」って芯から思っているなら良いんだ。でも、ここにプラスして「賢くなりたい、って言わなきゃいけませんよ」みたいな力学も働いていそうでね。そういうシーンを目にするたびに、「気のせいならいいんだけどなあ」と思いつつ心配してしまう。
これこそ僕の世界観を押し付けてもいけないから、心配するだけだけど。その心配もまぁ「身勝手な心配だな」なんて思いながら。