イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

身勝手の肯定

1人で生きていける人はいない、というハナシはよく聞く。結局は他者との関係性だよね、と。こういう言葉を聞くと綺麗な言葉だと思うけれど、僕の中に落ちてはこないなあ、といつも思う。僕ももちろん、1人で生きているわけじゃない。でも、それって人の世界だけの話じゃないのだ。 つまり、僕は誰かに助けられていて、それは人間だけとは限らない。むしろ人間以外のほうが僕を助けてくれている。揺れる草木も空を踊る鳥たちもたまに見かける雉や鹿。太陽や月や星々もそう。雨だって川だって、僕を支えてくれているわけで。人との関係性に終始する「1人で生きていける人はいない」という言葉は、ちょっとどうなんだろう、と思ってしまう。関係性を築くのは人間同士だけじゃない。周りに人間はいなくても、命に溢れていれば生きていけるんじゃないかな、と思う。 まぁコンクリートジャングルは生態系の命全体における人間の割合が大きいから、人に終始するのも不思議じゃないんだけれど。少なくとも僕は、人に終始したくないわけだね。 関係性は努力して築くもんでもないよな、という感覚もある。僕と鳥たちは勝手に生きているだけだ。勝手に生きているだけで、ちょうどいい距離感が生まれる。僕のことを怖がれば飛び去るし、そうでもなければ近寄ってご飯にありつく。決して無視はしていないし、なんだったら「常に気にかけている」けれど勝手にしている。 「人と人って本来は相性が悪いものだから、一緒にいるのには努力を忘れちゃいけない」と、森山直太朗さんが言っていた。この努力は肩肘張るような努力じゃなく、「縁や恩を忘れないまま、自然体でいる」ということなのかなと思う。人と鳥だって相性が悪い。でも、一緒の空間にいれるわけだ。勝手にしているだけでね。そこには「無理やり懐かせよう」みたいな努力じゃなくって、「僕も勝手にするよ」「君の勝手を否定はしないよ」という努力。努力だなんて思っちゃいけないくらいの、ね。
前へ
一覧
後へ