イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

気にするのではなく、願う

例えば僕がこうやって文章を書いているその間に、他の方々の人生はどうしようもなく流れている。例えば目の前でゴミをポイ捨てする壮年の人を見て、義憤の念を禁じ得なかったとしても、その人にはその人なりの何十年もの歴史、一万日を越える「今日」があったわけだ。もちろん、今もそう。 人のことを気にしても仕方がない、というのは、それを気にし出すと情報量が膨大過ぎて手に負えないからだろう。「無視しろ」ではなく「仕方がない」なわけだ。同じようなことは、熊だってそうだ。北海道で熊が駆除される度に抗議の電話が来るらしいけれど、熊の事情を気にしたって仕方がない。雨上がりの晴れた日にコンクリート上で息絶えるミミズだってそうだぞ。気にしていなかっただけで、あのミミズだって、何百日も生きてんだぞ。しかも1日もサボらず。これも「気にしろ」ってんじゃなくて「仕方ないだろ」ってハナシ。 まぁでもこれは「気にしちゃうのも、仕方ないよな」っていう側面もある。根っこのところでは、ありのままでいいのさ。でも、気にするなら気にするで、良い側面の方に気にしたいよな。 ある方が「誰かにムカついた時、その人が服を選んでいるシーンを思い浮かべるようにしている」と言っていた。こんなイヤなやつでも、服屋さんで服を見て「これいいな」とか思う瞬間があって、それを思い浮かべると愛おしくなって許せちゃう、と。素敵な「気にし方」だと思う。そういう方向性でいきたいなあと思うよ。もっと言えば、そういう方向に僕も含めてみんなで思えるような自分で在りたいね。 優しさってのはそういうことなんじゃないかな。誰も見ていなくても洗面所に飛び散った水滴を掃除するのは、きっとそういうことさ。気にするのではなく、願っている。
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