イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

信じてないけど使っている

書き出しを「ある方が言っていた言葉があって」という風に始めたくなる衝動がそこそこにある。それはつまり、僕が言葉と頻繁に出会って記憶しているということだと思う。今も、先週くらいに出会った「AIってあいつら、経験してないのに知識だけで言ってるガリ勉なんだよ」といったような言葉が、何日も経った今でも良い言葉だなあと思う。ただ、これを文字で読むとキツく見えるかも。実際はウキウキしたような声で話していて、それも含めて「好きな言葉」なんだけれど。 そこでは「あいつら(=AI)の言うことって、大枠ダサいんだよ」とも言っていて。それはつまり優等生的な発言に漂うダサさが生成AIの発言には常に漂う、と。この説明ってすごい主観的なんだけれど、それでも強く共感できる部分があって。納得できる言語化って主観にあるよなあと改めて思う。この方は「わかっててもダサさを取らなきゃいけない場面はある」とも言っていたけれどね。 はてさて、こうやって誰かの言葉に対して「それ、いいね」とか「それってつまりさぁ」みたいなことを僕は性懲りもなく思っているし、間隙なくそう思うくらい、言葉と出会い続けているんだなあ、と思う。あとはインタビュー系の記事とかが好きだから、色んなジャンルの人の言語化と出会っているんだろうな。さっきの言葉は純文学作家さんのものだし。学者さんやゲームクリエイタ、あるいは俳優さんとか芸人さんとか、色んな人の言葉と出会っている。 なんだったら毎月のように届く地元のフリーペーパーとかもたまに読んでいるし。言葉をあまり信じていないけれど、反面すごく言葉と触れ合っているんだよな。まぁでも鉛筆の芯の硬さを信じていないけど、折れたり削ったりして使っている、みたいなことだよ。違うかも。これはへたくそだね。
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