イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

一番興味のあることが

今朝は案外、手紙を書くのに戸惑っている。例によって堅苦しいというか、小難しく見えるような言葉が並んでしまう。なんだろうなあ。小難しいハナシをしたいわけじゃないんだけれど、どうにも小難しく見えてしまう。 なんとなく「コレについて書きたいな」と思っているモノはあるんだよ。それは「社会との繋がり」に関することでさ。言ってしまえば僕は社会との繋がりにおいて「距離を置くこと」以外の関わり方が見えないでいる、ということなんだけれど。この話題は僕にとっては別に悲観的でも自虐的でもないんだ。でも、社会にどっぷり身を置いている方々からすると「へっ?」って思うようなことなのかなあ、って思ってね。 実際世の中には、「人との繋がりがないと生きていけない」みたいな方々もいるでしょう。交流会開きましょう、知らない人と会いにいきましょう、と。僕は会社の食事会でさえ、端っこに引きこもるくらいの人間だからね。そんな僕を怪訝に見る目も知りながら。 そうやって引きこもる理由は、今まさに書こうとしていることとも繋がるんだけれど。創作から言葉をちょいと借りると、「僕にとって一番興味のある現実や真実は、どうやら誰もが楽しめる話じゃなかった。それがどうにも居心地が悪い」ということ。尺度の違いを痛感するんだ。こう、カラオケで歌いたい唄は、みんなも楽しめる唄じゃなかった、みたいなこと。 僕にも友人はいるし、飲みや遊びに誘っていただいたら二つ返事で行くことも多い。僕は「居心地が悪いと思いながら居続けること」ができるほど器用でもないから、少なくとも僕と飲んだり遊んだりしたことがある人は「実はイオリンさん楽しんでなかったのかな」とか思わないで欲しい。全部ちゃんとむっちゃ楽しんでる。それは「個」として付き合えている範囲だからだと思う。「社会」という総体をまとい始めると、居心地が悪くなる。「みんながすり合わせようとしている枠」がどうにも合わないからだろう。 もちろん、社会という総体を否定するつもりもないし、それが楽しいなら素晴らしいじゃないのさ、と思っている。こう、なんとかこういうハナシを、どうにか柔らかく書けないかなあ、と書きあぐねている。
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