イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

思考には車輪を

僕は考えるのはとても好きなんだけど、「考えているけどやっていない」っていうのは全然意味がないなあと思う。「考えている」ってのはそんなに大したことではないんだよ。全然大したことではない。実際にやる、手を動かす、っていうところが伴ってないと、どんどんリアルからは遠ざかっていくでしょう。 でも考えている、っていうと立派に見える。賢いんだ、って思える。賢いっていうのも立派に見える。でも一歩間違えれば「賢(さか)しい」になるわけで、別に考えていたり賢かったりしても、それは全然、「足が8本ある」と同じくらいの位置でさ。足がいっぱいあるクモやダンゴムシを、ただそれだけで立派とは思わないでしょう。「考えている」ってのもそれと同じでさ。ただ脳みそ大きいだけなんだから。せいぜい「派手」くらいの位置。 その「考えている」が輝き出すのは、実際にやっている、っていう車輪がついてからなのさ。積み木でできたミニカーみたいな感じでさ。立派に本体を作っても、車輪がついてなきゃミニカーじゃない。でも車体を考えているほうが立派に見えるし、あるいは「実際に走るか」を考えなくていいから、みんな車体の方に目がいきがちだし、車輪ついてないほうが派手な車体を考えられる。 でも実際には「車輪がつかなきゃ意味がない」。思考に対する車輪は「やってみる」ってこと。上手くいかなくても不格好でも、一歩前に進んだだけで、これまで考えていたことが全部ひっくり返ることだってある。車輪がついていない思考なんて立派に見えるけとその実、とっても稚拙なのさ。 僕は考えるのが好きだけど、一番僕が頭を使って考えている時は、実際に試している時だ。何かをやってみて、そのリアクションを何かしら身体で受けて、さらに考えて・・・っていうループこそが「考えている」っていうやつで。身体性が伴っていないといけない。それはなんか哲学的なことであってもそうだね。その末に、僕の「万物は流れ」という思想もある。 ただ考えているだけだなんて、むしろ何も考えずにボーッとしているほうが健康に良いよ。
前へ
一覧
後へ