イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

注意書きばかりが

例えば僕が何気なく、「今日はなんかイヤな日だね」と言ったとする。僕はそれを「湿気が高くてイヤだね」くらいの気持ちで発言したけれど、受け取る側が「あ、なんかイヤなことあったんだ」と思い、そして人間にとってイヤなことの多くは人間関係にあるから「誰かとイヤなことあったのかな」という推測をする。それが知らぬ間に広がっていく。場合によっては僕の大切な人がイヤな気持ちになったりもするわけだ。 はてさて、コレは一体何が悪かったんだろう。ひとつは、僕が「なんかジメっとしてイヤな日だね」という風に言及すれば防げたね。もうひとつは、受け取った方が「なんかあったん?」と聞き返すことでも防げたね。むつかしい言い方をすれば「裏を取る」だけども。かんたんな言い方をすれば「訊く」だ。 たまに、「なんかジメっとしてイヤな日だね」と言ってさえ、「この"ジメっとして"は暗喩で、人間関係でイヤなことがあったんだ」という受け取られ方をされることもあるよね。これはそうだな、例えばご飯をご一緒する時に、「今日ぼく、ベトナム料理食べたいんだけど、どう?」ときかれて「むっちゃええやん」と答えたのに、「本当はあんま食べたくないんでしょう?」という推測が広がることがある。 これはもう、場の問題だよね。疑わなきゃいけないような場になっちゃっているのが問題でしょう。もう少し言えば、疑いたくなるけれど聞くに聞けない雰囲気。つまりは勘繰らなきゃいけない場ができている。 最近はハラスメントなんてのもあるもんねえ。「なんかイヤなことあったん?」でさえ怒られることもあるでしょう。「プライベートですよ」なんて。少し前にテレビCMでやたらと注意書きが増えたことが揶揄されていたけど、今や人間関係でさえそうだよね。「言いたくないなら言わなくていいよ」だなんて、そりゃそうだろう。 注意書きが荒唐無稽だと、余計に勘繰りが増えるよね。クレームもそうかもね。
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