イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

共有も代償もできない

君と僕はどうしたって別の生き物で。それが例えば鳥や犬とかだとしたら割とすんなり受け入れられるのに、いざ人間の話となると、なんだか悲壮感が漂うのはなんでだろう。諦めている、とかいうことでも、本当は違うんじゃないかなあ。 僕はたまに「仕方なかった」ということを言う。それは別に、諦めているというわけじゃないんだよ。例えばそうだなあ、人間関係って季節みたいなものだからさ。ある時期には毎日遊んでいたとしてさ。それがある時期には全くの疎遠になってしまう。そこには何かのきっかけがあったりなかったりする。どうしようもないすれ違いがあったりとかね。 で、そういう時に僕は「仕方ないよ」とよく言う。僕がこう発言をすると、たまに悲しい顔をされる時があるんだよ。でも、悲しくはないのさ。寂しくはある。それは夏の終わりが寂しいけれど悲しくはないように。すべては流れて過ぎゆくものだから、リンゴが地面に落ちるのが已む無しであるように、仕方ないのさ。 それに耐えられるかどうか、というのは、それはそれで別の話ではあるけれどね。それは死別だと顕著だ。でも、仕方ないよな。人は死ぬんだから。僕と君は別の生き物なんだし。共有も代償もできないがゆえにすべては貴いのだから。そうだな、「仕方ないよね」と僕が言うときは、そこにはある種の貴さも感じている。寂しさも含めて。だから、諦めているといったハナシではないんだよなあ。
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