なんとかする、と、うまくやる
「なんとかする力」ってパッと見ると根性論だったりパワープレイだったりといった印象があるよな。でも、実際のところではなくてさ。なんとかする力が発揮されるのって大抵、パワープレイができない時、根性論ではうまくいかない時なんだよな。
たとえば映画制作とかでも、製作費がいっぱいあれば舞台セットを一から作ったりCGを潤沢に使った絵作りをしたりできるけれど、製作費がなかったらそれができないでしょう。それでもヒーロー映画を作りたい、となった時に、「なんとかする力」が必要になるんだよな。画角を工夫するだとか、舞台設定で市街戦をなくすとか、ここぞという一場面だけCGと使うとかいったこと。
ただ、一方で、根性論のようなハナシに言及せざるを得ない時もあるよな。東京から長野に行くときに、車もお金もありません、って言うときには「じゃあ歩くしかないわな」っていうことを考える。まぁそこでも「ヒッチハイクでなんとかできねえか?」っていうのも試すだろうけど、結局そこには「地道なことを積むしかない」という選択肢も当然出てくる。
そういう意味では「うまくやる力」というのは「なんとかする力」と同じではないんだな。ある創作で見た「才能とは容量の良さではない」という言葉が好きなんだけれど、もちろん、うまくやることが「なんとかする」に寄与することはあるけれど、うまくやること、要領良くやることに固執すると、割りと「なんとかする」からは遠ざかっていることもあるんじゃないかな。
ダイエットとかもなんかそうじゃない?きっと。