イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

鍵が遺された古典

「守破離(しゅはり)」という言葉がある。起源には諸説あるそうだが、少なくとも江戸時代にはすでにあった言葉だそうだ。何かを修めるということは「守って」「破って」「離れる」ということ。茶人や歌人がそう唱えているが、なるほど言い得ているなと現代においても思う。 「無知の知」とかもそうだけれど、現代よりもずっと言葉が少ない頃に生まれ、なお現代にまで多少の変化はすれど続いている言葉というモノは、僕らが思うよりもずっと根っこを表しているんじゃないか、と思う。僕が年をいただいただけかもしれないけれど、行き着く先にある言葉は、案外、古典とも言える言葉だったり節だったりする。 似たようなところで、僕は戦国時代の分国法を読むのが好きだ。特に今川仮名目録とその追加は、単純に読み物としても面白いし、村人に伝えるために仮名と日常的な言葉で書いてあったり、判断が可能な条文になっていたりと、興味深い工夫がいっぱいある。出版なんてなくて「誰かが書き写して配る」しかないから、徹底的に考えただろう。Undoなんてできないわけだ。奉行所とかはそれを見て訴えの処遇・処罰を決めるわけだし。 そういった言葉が量産できない時代に生まれ、そして現代にも語り継がれ、遺されている言葉には、僕らが思っている以上に鍵が隠れているように思う。まぁ、僕が年をいただいたからそう感じるだけかもだけどね。
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