イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

環境とアーティファクト

東京に行くたび、東京というものを考える。それは僕が住む長野は南信とは全く趣きの異なる場所だからだ。人工物とそうでないモノの割合の違い。僕が今こうやってキーボードで文章を書いているこの眼前にも山が悠然と佇んでいる。東京の目に映るのはどこもかしこも人工物。その環境の違いが、僕らに影響を与えないわけはないのだ。 僕が興味深いなあ、と思うのは、東京に住む彼ら彼女らにとっては、東京のほうが日常なんだ。つまり人間が形作るアーティファクトに100%囲まれた世界が日常であり、雄大な自然のある世界は遠い世界なんだ。もちろん、公園はあっても、それはアーティファクトとしての植林。だから、山に、川に囲まれた世界にいる僕に対して「そっちはどんな感じなんだい?」と、まるで閉ざされた農村にやってくる旅人に話を聞く少女のような質問を投げかけてくる。 例えば閉ざされた農村の宿場の一人娘と、王都に住んで本屋を営んでいる青年では住んでいる世界が違うでしょう。同じような世界の違いが、きっと僕らにもあるんだろうな。フラッと訪れるだけの僕でさえ、東京にいる頃はなんかセカセカしちゃうものね。 思えば僕がこの長野県伊那市に来た時は、どっちかというと「やっとこさ、帰ってきたなあ」という感覚があった。道路の整備が朽ち始めていて、正方形の板の間から植物が生えている、その有り様に故郷を見たものさ。僕は10年近く首都圏に住んでいたけど、ついぞ首都圏を日常だと思うことはなかったのだな、とも思う。 そういう意味では、環境が変えたのではないのかもしれないね。生まれた時からそうなのかも。
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