生きているのではなく生きるということ
ほぼ日で糸井重里さんが「生きる」ということについて書いている。一方で少し前に、落合陽一さんとひろゆきさんがAIと人間について語っていた。この2つは全く趣が異なるように見えて、実のところ同じような結論に近づいている気がする。つまり、僕らはもっとまじめに生きたほうがいいということだ。
落合さんとひろゆきさんの対談では、「人間の知性や賢さに意味はなくなってくる」「それどころかイノベーションってやつも、人間のものではなくなる」といったことだった。むしろ賢さやイノベーションってモノが持て囃されているのは本当にここ最近の出来事で、異常なんだ、と。大昔は1万年、10万年に一度しか起きていなかったのが、1000年に一度になり、100年に一度になり、10年に一度になってきた。そうすることで、一生のうちにイノベーションを引き起こせる人間が持て囃されるようになった。
そしてAIの誕生により、今や1週間に一度、イノベーションが起きる世界になった。そうなると、人間の賢さってやつの価値はなくなるだろう、と。そうなると、「体力があるやつがエラい」とか「人生のストーリーが面白いやつがエラい」とか、そういう原始的なモノに立ち返っていくだろう、というハナシ。
つまりはバカバカしいようなことや、無駄に見えるようなこと。それでも自分たちにとっては「大事なんだ」と思えるようなこと。そういうことが大事なってくるんじゃないか、というハナシで、これは糸井さんの「LIFEをおろそかにしない」という結論にかなり近いよね。
あるいは、何度か取り上げている本谷有希子さんのAI評「あいつら、経験してないのに知識だけで言ってるガリ勉なんだよ。」も言い得ている部分があるように思う。経験しているということの深さ。ただ生きているのではなく、ちゃんと生きるということが、意味を持ってくるんじゃないかな。