イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「まじめ」と「おろそか」

「まじめである」ということと、「おろそかにしない」ということは、近いようで違うよな。それは、「青である」と「赤じゃない」ということが同じではないように、ね。「まじめにやりなさいよ」と言われると、「やってるよ」と返したくなる状況でもさ。「おろそかにするんじゃないよ」と言われると、「あ、そうだね、おろそかだったね」と気付けるようなことはあるんじゃないかな。 さても僕は時折、苛烈な人間だと捉えられることもあるんだけど、僕はそこに違和感があってさ。僕は苛烈でもないし、まじめな人間でもない。でも、僕は「おろそか」にはしないんだ。たとえば仕事の息抜きで横になることはあるけれど、その横になることをおろそかにはしないんだ。ちゃんと「横になる」ということと向き合って、創意工夫している。 それは仕事に限らず、旅行に行く時もそう。僕は計画を全然立てないけれど、それは「僕が旅行を楽しむためにはダラリとした余裕がいる」ということであって、おろそかにしているわけじゃあない。むしろ「まじめ」ってやつは、何かがおろそかになった結果出てきやすい言葉な気もするね。まじめにやっているうちは、それっぽいから。 もちろん、まじめであることは素晴らしい。別にまじめを冷笑したいわけじゃなくってさ。むしろ冷笑文化には徹底的にNoを叩きつけたいんだけども。一方で、「まじめであること」は「おろそかじゃないこと」と必ずしも繋がらないから、気をつけなきゃね、みたいな、そんなハナシ。
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