在るということは、言葉よりも前に
この話は何度も書いているけれど、こうやって日々言葉を連ねていると、何度も頭をよぎったり戒めたりしちゃうハナシなんだよ。
「人は国に住むのではない。国語に住むのだ。」という言葉がある。さても僕らは国語、つまりは言語に支配されている。あまりにも普段から言葉を使うから、言葉というものが世界に存在しているように感じてしまう。僕はこうやって毎日、言葉を連ねて文章を書いているのだけれど、それでも——いや、だからこそ、言葉というものに囚われすぎないようにと心がけている。「言葉はいつでも後付けなんだ」と思う。
例えばそうだね。「熊は怖いね」というハナシをしたとしよう。脳内で熊という生き物が縁取られて、それを想像しながら「怖い」と話す。でも、「Bearは怖いね」と表現すると、ちょっとその熊の輪郭が揺れるよね。「Ours(ウルス)」だともう、輪郭はなくなる。Oursがフランス語で熊を表す、という知識がないと、Oursを縁取ることは出来ない。
でも、僕らが怖いなあと思っている「熊=Bear=Oursと呼ばれるソイツ」はずっと在るでしょう。海外旅行に行って「お水が欲しいけどインド語でお水ってなんて言うんだ」って困っている時、言葉は脳内にないけれど、でも「お水と呼ばれるソイツ」はいるでしょう。言葉は後付けなのさ。それも、「偶然そう呼ばれているに過ぎない」くらいの位置。
でも現代は、僕が今そうしているように、言葉であふれ返っている。スマホもなんもかんも、言葉のオンパレードだ。SNSで言葉を誰でも量産できる。そうすると、いつしか言葉だけで世界が構築されるようになっている。でも、そいつは果たして信用できるのかい。
僕の好きな詩人、御徒町凧さんが「詩は生み出すんじゃなくて近づく」と言っていた。詩は先にそこにあって、それに近づいた時に書ける。「お腹が空いた」とか「眠い」とかをなんとなく書いているように。「詩は言葉からは一番遠い」とも言っている。お腹が空いた、という詩情が先に在り、それに近づいた時に「お腹が空いた」と筆を動かしているだけ。