イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

言葉数を減らすために言葉を書いている

僕は度々、「言葉なんて後付けなんだよ」というハナシをしているね。言葉よりも先に世界があるんだから、世界のほうをおろそかにしちゃいけないよ、と。ただ、そう思うのと同じように「言葉だって、おろそかにしちゃいけないんだよ」と思う。それは、言葉の持つ魔力はとてつもなくって、ちょっと間違えただけで、その間違いが場を支配してしまうことがあるからだ。 特に最近はインターネットで世界中が繋がって、言葉の魔力は抑えきれない。例えば「目標」とか「生き甲斐」とかさ。そんなの世界には存在しないの。あるのは「あれ欲しいなあ」とか「生きててよかったなぁ」なのさ。でも目標とか生き甲斐とかいう言葉が大義名分を帯びてネットに転がっているでしょう。「目標を持ちなさい。だってみんな持っているでしょう。大谷翔平さんもそうしてるでしょう。」とか。「生き甲斐を持ちなさい。そういう人はいつまでも生き生きしているでしょう。マザーテレサさんもそうでしょう。」とか。 でもそーんなモノは、まぁ大谷翔平さんとかテレサさんたちの世界にはあったかもしれないけれど、君や僕の世界にないのなら、それは「ないもの」なの。でもそういう大義名分を持った言葉が、リアルよりも力を持ってしまう。それは魔力であり、呪力だよ。それくらい危ういモノであることを認識しとかないと、カンタンに僕らの世界が歪んでしまう。 SNSに加えて今や生成AIで言葉はどんどん量産できるようになってきた。これはある種「大量破壊兵器が誰でも作れる」みたいなのに近い危うさを感じる。言葉の生産数はもっと少なくていい。僕はそのために、毎日言葉を連ねているんだ。
前へ
一覧
後へ