イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

あの太陽のように

森山直太朗さんの唄に、「人のことなんて」という唄がある。これはとっても短い唄で、たしか作詞家の御徒町凧さんがスケッチブックにあった詩を直太朗さんが見つけて唄った・・・とかだったと思う。「人のことなんて もう どうだっていいじゃないか」だけの歌詞で。御徒町さんが「これはさすがに唄にはならない」と思っていたけれど、直太朗さんが曲をつけた、と。だから、これは詩なんだよな。言葉そのものよりも、その言葉によって近づこうとしている「詩情」があるんだね。 詩であるということは、森山直太朗さんが、あるいは御徒町凧さんが「人のことなんてどうでもいい」と思っている、ということではないのさ。詩とは客観性のあるモノだからね。誰かがそう思ったとか思っているんじゃなくて、世界には、「人のことなんて もう どうだっていいじゃないか」で象られる何かがあるんだよ。それが詩だよね。 これはまぁ、「愛している」とかもそうかもだね。少なくとも今の僕はそうかもしれない。僕は誰かを、何かを愛しているけれど、それは僕の感情じゃなくって「世界にはそれがある」という感覚に近い。だから僕はきっと君のことだって愛しているけれど、それは感情じゃなく、僕の世界にはそれがある。昼と夜が毎日巡り巡るように、あの太陽がこの世界を照らし続けるように、僕は君を、君たちを愛している。 これは愛が深いわけじゃないんだなあ。だって同じ愛を、僕は道行く小鳥にも持っているよ。そして哀しみもそうだよ。僕は父を亡くした時と同じ哀しみを、車で踏みつぶされてしまったカエルにも思うよ。それは、人でなしのように思われるかもしれないけれど、そうなんだなあ。 感情がないわけじゃないんだけどね。僕にとって感情とは「今この瞬間」にしかないものだね。僕にいわゆる没頭できる「推し」という対象がないのも、感情が「この瞬間」にしかないからかもだね。
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