イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

アイデンティティを愛さない

ある方が「イオリンさんは、勝手に愛しているよね」と言っていた。これがなんとも、うまく言い表してくれたなあと、半年くらい経った今でも思い出す。僕は親愛でも友愛でも、勝手に持って、それで満足する人間だ。というか、そもそも愛とはそういうものではないかな、と思うところもある。 ちょっと難しい言い方になるかもしれないけれど、おそらく僕は、アイデンティティを愛さなくって、現象や体系を愛している。例えば「精いっぱい今を生きている人」を愛するけれど、「その中の君」だけを特別に愛することはない。「もちろん君を愛しているけれど、同じようにあそこにいるアオサギのことも愛しているよ」という形。 逆もそうで、何かに対して「イヤだなぁ」と思うことはあっても、アイデンティティに対しては思わない。「歩きタバコする人はイヤだなぁ」と思っていても、君のことを嫌うことはない。「罪を憎んで人を憎まず」でいられるのは、「善を愛して人を愛さず」であるからだ。 アイデンティティを愛するというのは、執着とも呼べる。それは決して悪いことじゃなく、いわば「推し」ってやつだろう。「推し」と「推し」が一致することを相思相愛と呼ぶのだろう。ただ、そういう意味で言えば僕に「推し」はいないのさ。少なくとも10年はいない。 これは人に対してだけじゃなくって、たとえば土地に対してもそうだ。今は長野県の伊那市に住んでいるけれど、この場所への特別な愛着というものは、全くない。見える山や川や、あるいは鳥たちは大好きだけれど、愛しているのはそういった「体系」であって、この土地のアイデンティティに対する愛はないのさ。 僕が根無し草である大きな要因のひとつかもしれないね。地元にいても、過去の思い出や歴史を想うことはあるけれど、地元に対する愛は、長野に対する愛や、かつて暮らしていた和歌山に対する愛と変わらないよ。
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