イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

自分の部屋

僕の知り合いには結婚をしている方々がいる。そういう方々を目にするたび、僕が思うのは「大変なことだなあ」と思う。人と人とが同じ屋根の下に暮らすというのは、いつ考えても大変なことだ。 僕がまだ未成年だったころ、実家と呼んだその家で僕は暮らしていたけれど、僕は自分の部屋が大好きだった。自分の部屋の虫だった。ご飯はリビングでいただいていたけれど、食べ終わると早々に「部屋いくわーー」「はーーい」という会話がなされて、僕は部屋にこもっていた。 そこで本や漫画を読んだりゲームをしたりテレビを見たり・・・そういう生活をしていた。あるいは家族用パソコンをしれっと自分の部屋に持ち込んだりなんかした。そして父と母が掃除や用事、あるいは酔っ払いがてら僕の部屋を訪れては雑談をする。 あれを「誰かと暮らす」と呼んでいいかはさながら疑問ではあるけれど、僕が誰かと一緒に暮らす際の距離感とはそれなのだ。それはきっと、今でも変わらない。僕にとって、「一緒に過ごす」というのはそれ自体が非日常なのだ。各々が勝手に好きに生きて、「よければ一緒にやるかい」「いいねぇ」があるだけでいいし、むしろそれが全てなのだ。 そもそもが自己完結してしまっているので、他者と一緒に暮らすということへの切迫さがないのもあるだろうけどね。たまに「長野で独りで暮らして寂しくないの?」と聞かれるけれど、感じたことがない。それは、単独で自己完結してしまっているからだろうなあ。 結婚という始まりで書き始めたけれど、多分それは仕事のチームとかでも一緒だろう。「何かあればいつでもかけつけるよ」「一緒にやったほうが良さげなら、一緒にやろうよ」くらいが僕のチーム感だから、「チームビルディング」って発想にならないんだよねえ。年を取ればまた変わるかな。
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