イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

誤解はそのままに

他者を理解する、って多分なくって、解釈をどうするか、でしかないんだろうなあ。それはでも決して悲しいことじゃなくて、むしろ自然であり、自由なことさ。たとえば、暮らしている犬でもいいし、道端を飛んでいるハトやカラスでもいい。彼らが考えていることを「警戒してるのかな?」とか「懐いてるのかな?」って解釈はするけれど、理解はできないでしょう。でも悲しくないでしょう。そんなカンジで。 でも、こと人間になると理解しようとしちゃうよね。それはきっと、「理解されたいから」だろうね。誰かに理解されたい。誤解されたくない。そんな気持ちが、対・人間には湧き上がっちゃう。だからこそ、「理解する」という気持ちになるんだよ。「してもらって嬉しいことを、相手にもしょう」っていう、ごくごく、真っ当な善意で。 でもその実、それはただの解釈で、つまりは無限大に広がってしまう。その無限大の広がりから正解を引き当てようとする。しかも答え合わせは原理的に不可能ときたもんだ。そんな無理ゲーを、対・人間にだけは、求めちゃう。だって、「理解された時」の喜びは、そりゃーもう、たまんないもの。 ただ、それは幾万もの誤解を生み出し、それは悲しみに繋がることもあるよね。嫌われていると思っていたら、相手もまた嫌われていると思っていた。そんなすれ違いは山ほどある。それもまた人間模様としては興味深いけれど、気持ちのいいモノじゃないよね。 だから、まぁ、相手に対しては「見たまんま」を捉えるのが、いちばんいい。一方で、誤解されていることや、伝わらないことも、「どっちでもいい」と置いておくのがいい。 その上で、まぁ誤解とか、なんだとか、色々あるけれど、今この場が楽しくなるにはどうなるといいかなあ、とか、日々が素敵になるにはどうしたらいいかなあ、とか。そういうのをふんわり、勝手に、考えるといいんじゃないかあね。見たまんまに。
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