イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

手軽だけど強すぎる功罪

言葉にするというのは、本当に危ういことなんだよなあ。今の時代は特にそうで、誰でも簡単に言葉が量産できる。それはもう、本当に簡単にできてしまう。だから、言葉の危うさ、特性、怖さ、そういったことに目を向けるよりも前に、言葉を使ってしまう。 でも、ペンは剣よりも強し、というでしょう。つまり、剣を扱うのにも注意がいるように、ペンを扱うのにも注意がいる。ましてやコンピュータなんてのはペンの超強化版でしょう。じゃあ、もっともっと注意しなきゃいけない。でも、あまりにも手軽に使えてしまうから注意が向かずに、気付けば言葉に振り回されてしまう。 たとえば、何か発言をした時に「それって、こういうことですよね」みたいなことを返されることがあるんだけれどさ。大抵の場合、違うというか、かなり削ぎ落とされてしまっているんだよ。「あんパンって美味しいよねえ」って言ったら「つまり、君はあんパンが好き、ってことですよね」みたいな。いやあんパンは好きだけど、今僕が言ったこと、それによって表したことは「あんパンが美味しい」と言いたくなったこと、その現象なんだよ。 でも、言い換えられてしまうことで、別の存在しなかった現象が生まれて、しかもそれが正解になってしまうでしょう。「イオリンさんはあんパンが好きらしいよ」みたいなのが広がってしまう。違うんだなあ、違うんだなあ。僕は「あんパンが美味しいと感じたこと」が好きなんだなあ、それを伝えたかったんだよなあ、みたいなこと。 これはただの一例だけど、こういう強すぎるテクだけが先走ってしまって、リアルをねじ曲げてしまっているようなことが、どんどん加速してるよなあ、それはあまり居心地の良いものではないねえ。 ちょっぴり話の風呂敷を広げると、この「手軽だけど強すぎる」のアンバランスは、生成AIちゃんのおかげで画像や動画にも、あるいはあらゆるデジタルコンテンツにも躍り出るだろうねえ。
前へ
一覧
後へ